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ある治療家の凄さ
先日、ある治療家(失礼ながら以後は○○先生とする)のセミナーに参加することができた。
2日間だったが、とても充実した時間を過ごし、多くの感覚の受容をいただいたのである。
実に、熱意のこもった献身的な指導だった。
感謝の言葉以外ない。

セミナーは、基本的で初歩的な感覚の学びだと強調されていたが、受け手にとっては実に高度な学びだった。
感覚は全く個人的なものなので、同じものとして共有することが難しい。
つまり個性があるので、教える側の苦労にも計り知れないものがあるだろう。

大勢の中にあって感覚を均一化しようと思うと、これでいいのだろうかと疑心暗鬼にもなる。
だから自分自身で納得する以外ない。
ところが今回、○○先生が参加者一人ひとりの状況に合わせて、その違いを実感させてくれたのである。
これは本当に得難い体験だった。

感覚入力は、身体を元に戻そうと介入するために使うのではなさそうだ。
身体が勝手に調整する働きを導くために使うのだろう。
その意味では、感覚は入口に過ぎないのかもしれない。が、この入口が厄介である。
○○先生が「初歩的な感覚」と言われたことも頷けるような気がする。
簡単には扉の入り口に立てなかった。

治療哲学にも「全体論と機械論」という概念がある。
アロパシーは「機械論」で、代替療法は「全体論」で説明されている。
全体論の治療哲学では、身体を分割できない部分の総体とみなし、しかもそこには有機的な関係」があるとみる。

だからといって、身体全体を治療すればいいという話ではない。
それでは単に、「部分の総和」として身体をみていることになるからだ。

そんなことは重々分かっているつもりでも、いざ臨床となると、気になる部分にだけ目が向きやすく、そこに執着するようになる。
だから「部分の有機的な総和」という考え方と、大分ニュアンスが違ってくる。

全体論の治療哲学に立てば、身体のどの部位からであろうと、有機的な全体の調和がもたらされる、はずなのだ。
例えば、下方の足からでも頭部頸部の機能的変化をもたらすことができる。
そんな身体への入力と出力の応答の結果から、「部分の有機的な総和としての身体」という視点を、あらためて感じることになった時間でもあった。

表現を変えれば、このようにも考えられる。
身体において観察できる歪みや症状などは「現象」に他ならない。
それに対して、現象には「それを表現するもの」がある、ということになる。
表現するものと、表現されたものである。
その表現するものを仮に「潜象」と呼ぶと、この「潜象」こそが、実は変化のカギを握っているのだろう。

「潜象」は、なかなか視覚的には捉えがたい。
そして、その「潜象」をつくっている実態も謎なのだろう。
が、私は○○先生の手法と結果を拝見しながら、ある核心的な問題が頭をよぎった。
そこから俯瞰して推論すると、先生が披瀝したいろいろな手法が線や点となり、私の中で結び付いたのである。
とても有難い導きであったが、思い違いかもしれないので、ここではそのことには触れないでおこう。
もしも勘違いであったらトンデモナイことだ。
折を見て書簡にして、推察したことを直接申し上げようかと思う。
「違う!!」とダメ出しされるかもしれないし….、「そんな暇があったら精進しろ!」と、お叱りを受けるかもしれない…。たぶん!。

帰宅してから、まだ感覚が生々しいうちに自分の治療の中にも取り入れてみた。
セミナーで得た感覚と変化を感じながら治療することができたのだが、この感覚の受容は嬉しい限りだった。
家内にも治療を試みた。私にとって、家内は一番の正直な評者でもあるからだ。
家内の体の変化の状態や感想を聞きながら、私の心には躍るものがあった。
それでも、これを継続して活かせることこそが大事だろうと思っている。

○○先生の考え方や手法が、日本の治療家の血脈の中で受け継がれているものであることも知った。
これも誇らしいことであるが、とにかく潜象を自在に操れる治療家の凄さを感じた2日間だった。
by m_chiro | 2015-01-21 13:16 | 守屋カイロ・オフィス
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