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冠動脈疾患・ステント手術後の腰下肢痛患者
先月、中高年の主婦が左胸背部の重苦しさを訴えて来院した。
内科循環器科を受診したところ、心電図にも問題がないので表面筋の問題だと指摘されたらしい。
この婦人はアスレチックジムでの運動を習慣づけているようであるが、上半身は使わずに自転車漕ぎ運動だけにしてみたが、やはり胸が苦しくなるので今は休んでいるのだと言う。
症状の軽減や消失する肢位や動きも見られず、重苦しい症状は一定している。
頸部や体幹、肩関節の可動域にもさしたる問題が見られないが、左小胸筋部には圧痛があり、その付着肋骨の可動は制限されている。
それをリリースしても症状に変化はない。
循環器科の診断が骨格筋の問題だとしたわけであるが、どうも気にかかる。
結局、変化が見られなければ循環器専門医にセカンド・オピニオンを求めるようにアドバイスした。

それから1カ月も過ぎた頃に、ご本人から電話があった。
簡略経過を述べると、治療後も現状維持のまま1週間が過ぎた頃の夜に強い痛みが出て救急指定の病院にかけつけた。そこで心筋梗塞と診断され、そのまま入院となったらしい。
精査の結果では冠動脈の狭窄ということになり、バルーンで開放してステント入れる手術を行ったようである。患者さんも、狭窄部が右か左かは定かではない。
大事に至らなくてよかったものの、筋骨格系の問題とされて、寛解症状も変化もない症状は侮れない。

2週間ほどで退院したのであるが、その間は両下肢を動かさないようにと、重しを乗せられていた。
その影響なのか、右の腎臓部周辺の痛みと鼡径部から大腿内側、下腿内側後面へと痛みが出るようになったのだと言う。
病院では湿布薬が処方された。筋肉痛とでも見立てられたのだろう。

みると、歩行で痛みが強くなる。臥位でも座位でも苦しい。
寛解因子はないかを尋ねると、正座から左へ足を崩して(横座り姿勢)、テーブルに右肘をついてもたれる姿勢でいると痛みが消える、と言う。
こうして寛解因子が見つかると、治療の大きなヒントになる。

理学検査と触診で、緊張性頚反射(屈曲障害)および蝶形骨-後頭骨間関節の頭蓋底障害(右外側方ストレイン)を顕著に感知する。
ステント入れる治療中、側臥位で頭部と上部頸椎に緊張を強いられた影響だろうか?

屈曲障害と頭蓋底の右外側方ストレインをリリースして、腰下肢の痛みを確認してもらうとVAS10が2になった。
膝窩部に少し重たい感じが残る程度である。更に、身体の最深部にある膜系の硬膜管リリースを仙骨-尾骨部で行ったところ、ほぼ痛みは消失した。

最深部の硬膜系のテンションが身体機能に与える影響を思った症例だった。
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by m_chiro | 2010-03-30 22:43 | 症例 | Trackback | Comments(0)
ミネアポリスからの招待状④ そしてロサンゼルスへ
ミネアポリスからの招待状④
④そしてロサンゼルスへ
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モリーン空港で、大役を果たして帰国する村松会長と別れ、私たち3人はロサンゼルスへ向かった。「天使の女王の村」という意味の、スペイン語に由来して名付けられたというロサンゼルスは、その名の通り魅力的な街らしい。年間2590万人が利用するという、西海岸最大の空港の大きさに唖然としながら、レンタカーで宿泊先のあるダウンタウンへ。

ロサンゼルスには、日本人のカイロプラクターに最も敬愛されている、中川貴雄先生のオフィスがある。中川先生は、1974年に渡米して、ロサンゼルス・カイロ大学を卒業。その後、大学で助教授として、4年間教鞭を取った。米国のカイロ大学で教鞭を取った日本人は、後にも先にも中川先生しかいない。

先生は忙しい診療の合間に、日本語のカイロプラクティック専門書の出版や翻訳、セミナー、JCAの月刊誌にも論文を掲載したり、獅子奮迅の活躍をしている。日本での中川先生への信望は、その人望と相侯って確固たるものがある。

私も中川ファンを自認する一人であるが、先生の著作や講義の魅力は、何と言っても合理的かつ論理的な手法にあるだろう。カイロプラクティックのテクニカルな教育は、どちらかというとドクターの感覚的な世界で展開されていた。そんな非論理的な勉強にウンザリしていた時に読んだ先生の論文は、「わかった」という快感を覚えるものであった。私はその秘密が、先生の観察力の非凡さにあるのではないかと思っている。

その憧れの中川先生と、3年ぶりの再会となった。ひろ子夫人を伴ってホテルまで来てくださった先生は、変わらぬ柔和な眼差しで歓迎してくれた。ご夫妻の案内で「リトル東京」に出向き、日本食にありつくことになった。後は、中川先生に「欧米発・カイロプラクティック新事情」のインタビューを済ませれば、今回のルポも終わる、と思っていた矢先に先生から素晴らしい原稿をいただいた。「苦労して書いてましたよ」と、ひろ子夫人。感激と解放感で、肩の力も抜けてしまったようだ。

明日は、ロサンゼルス・カイロ大学と付属クリニック、中川先生のオフィスの写真撮影。カメラマンだけが大事な仕事を残している。

翌日訪問した中川先生のオフィスでは、3人のドクターと事務の女性スタッフ3人が、テキパキと動いている。ひろ子夫人は、受付で患者さんや電話の応対に、見事なカウンセリング能力を発揮して、有能なパートナーぶりである。夫人のあの屈託のない笑顔の前に出ると、気持ちがとてもリラックスして、何でも話さずにはいられない雰囲気になる。私もついついプライベートなおしゃべりをしてしまった。

次に訪ねたロサンゼルス・カイロ大学では、「腰痛に対する共同臨床研究」をテーマに、カリフォルニア大学やバーモント大学医学部と共同研究プロジェクトを組んだり、医師・歯科医師との交流や共同研究を活発に行っている。こうした正統医学との交流は、カイロプラクティックの、新しい時代の潮流である。教育方式も、単なる知識の集積ではなく、ケーススタディを中心に、学生の知恵を引き出しながら、ドクターとしての能力を養う授業が重視されているという。

アメリカ、カナダで最も尊敬されている整形外科医の一入であるカナダ・サスカツーン病院名誉
教授、カーカルディウイルス博士は、カイロプラクティックが非科学的だと思われた時代の終焉を
認めた。アメリカでは今、カイロプラクティックが弾圧を受けた、長い長いトンネルを抜け出して、
科学という名の基に協調する新しい時代を築こうとしている。

1週間にわたったこの取材旅行で、多くの人と出会い、懐かしい人たちと再会した。このルポには登場しなかった、多くの日本人留学生にも逢った。やがては、彼らの情熱で、また新たなカイロプラクティック発展のぺージが開かれることだろう。
(「ミネアポリスからの招待状」は、1991年に「re-bone」の制作のためにアメリカのカイロプラクティックを取材したときのものです。)

(転載を禁じます)
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by m_chiro | 2010-03-29 18:10 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
ミネアポリスからの招待状 ③ミネアポリスの興奮 
ミネアポリスからの招待状③
③ミネアポリスの興奮

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ノースウエスタン・カイロプラクティック大学が、創立50周年を迎えた。大学は、ミネソタ州ミネアポリスの郊外にある。ミシシッピー川を挟んで、ミネアポリスとセントポールがあり、ツイン・シティと呼ばれるこの都市は、ミシシッピー川と湖に恵まれた自然と、中西部きってのコンベンション・シティが調和して北欧的なイメージである。18人乗りの小型プロペラ機で、モリーン空港を飛び立ち、国際空港に向かう機上からは、1万個以上もあるという大小さまざまな湖が点在して見え、景観の妙を楽しむことができた。空港からレンタカーで、イベント会場のラデソンホテルに向かった。

この街の人々は、とても開放的で、どこへ行っても気軽に声をかけてくれる。洋食の連続で食傷気味、その上、ハードスケジュールの旅の疲れもあったが、レストランの女の子たちの、明るく、人なつっこい応対に、すっかり元気を取り戻した感じがした。

ノースウエスタン大学は、カイロプラクティックの約100年の歴史の中で、最初にCCEの公認を受けた大学である。それだけに、大学関係者や卒業生からも、大学の発展にかける並々ならぬ意気込みが、ひしひしと伝わってくる。3日間にわたる記念祭のイベントには、全米のカイロ大学の学長や、要職にあるドクターが多数出席していて圧巻であった。

c0113928_21304884.jpg 私たちは、初めて訪れたこの大学で、思いがけず、懐かしいアルナルド先生ご夫妻と再会をすることになった。アルナルド先生は、ジェンシー学長の後任として、ナショナル大学の学長となり、JCAの教育にも貢献された恩人である。私たちは、突然の出会いに驚きと感動で握手し、抱擁して再会を喜び、話もつきなかった。

「日本の私の友人、多くの方は年をとられたと思いますけど、私は日本に招かれて、大変楽しい思いをさせていただいた。言葉も通じないのに、どうしてこんなに楽しいのか、こんなにコミュニケーションが図れるのか、と不思議に思うほど感激した。心から感謝していますと、カイロプラクティックを通じての日本人との縁を、懐かしんで話してくれた。

先生は、日本のカイロプラクティックの現状を尋ねた後、日本のこれからの歩むべき道は「教育」を確立することだ、と述べ、アメリカだけでなく、ヨーロッパや他の国のシステムにも学ぶべきだ、とアドバイスしてくれたのである。

一夜明けて、早朝からノースウエスタン大学のカサタ学長が、新築された大学のクリニックを特別に案内してくれた。「カイロを、決して整形外科の一分野に位置づけてはならない。カイロプラクティックは、独自の体系を持った医療である」と語ったカサタ学長の言葉通り、小児科カイロの治療室などが工夫されていたのが印象的であった。カサタ学長は、今、カイロプラクティックで一番重要なことは研究である、と強調した。それが、ノースウエスタン大学のテーマでもあるという。「カイロプラクティックの有効性を、口で言うのはたやすいことだが、研究調査したデータに基づいて、それを立証していかなくてはならない」と研究にかける意欲を熱っぽく語ってくれた。
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イベント2日目の夜は、世界的に有名なシンガーソングライター、ジョン・デンバーのチャリティーコンサートが企画され、会場は超満員。ジョン・デンバーは「カントリー・ロード」「ロッキーマウンテン・ハイ」「サンシャイン」など、自然への愛をテーマにした世界的なヒット曲を、次々とリリースしている。最近では、地球環境保護のための財団を設立、自然と地球を愛する「歌う伝道師」的な仕事に取り組んでいるという。

このコンサートも、ノースウエスタン大学を卒業したカイロプラクターが、友人のデンバー氏に会いに行く途中、交通事故で亡くなられたことが縁となって、大学の設備基金のチャリティーコンサートになったのだそうだ。

作家・森謡子さんのエッセイにもたびたび登場するジョン・デンバーの、透明感のある歌声は、満場の聴衆を魅了していった。歌の合間に、カイロプラクティックのことを評した言葉が、とても印象的だった。

「山道を走っている自動車が、谷底へ転落した。幸い、車は途中にひっかかったが、それを引き上げて助けるか、そのまま谷底へ落ちてしまうか、その運命を握っているのが医師だろう。カイロプラクティックは、谷底へ落ちないように、ひっかかる柵の役割を担っていると思う。できるならば、落ちる前に止める、偉大なガードレー〃になって下さい」。

自然を愛するデンバー氏らしい警えで、示唆に富んだ言葉であった。素晴らしい歌、感動的なスピーチ、大学関係者のカイロプラクティックにかける情熱、それをバックアップする世界のカイロの仲間。心地よい雰囲気に酔いしれながら、ジョン・デンバーの言葉が強く心に焼きついて離れなかった。
(転載を禁じます)
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by m_chiro | 2010-03-26 21:33 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
ミネアポリスからの招待状② カイロ発祥の地へ
ミネアポリスからの招待状②
②カイロ発祥の地へ

翌日、早朝に朝もやの中を、レンタカーを駆ってランバードを後にした。カイロプラクティック発祥の地ダベンポートまでは4時間ほどの道のりである。

イリノイ州からアイオワ州に入ると、アメリカンの穀倉地帯が、だだっぴろく広がっている。まだ種まき前なのだろうか、とうもろこし畑が土をむき出しにしている。それも、やがて一面が、とうもろこしの緑の大地に変わるのだろう。

私はW.P.キンセラの「シューレス・ジョー」の物語を思い出した。ケビン・コスナー主演の映画「フィールド・オブ・ドリーム」の原作となった小説である。「きみがそれをつくれば、彼はやってくる」という天の声を聞いた農夫が、アイオワのとうもろこし畑に野球場をつくり、亡き往年の名選手たちのプレーを楽しむ、というファンタジーである。ところが、その選手のプレーは夢を信じた人にしか見えない。

「JCAは正統なカイロ・カレッジをつくれ! という天の声を聞いた」と語っていた村松会長の言葉とダブらせながら、とうもろこし畑の彼方に、野球場ならぬカイロ・カレッジの夢と、そこに集う若者たちの姿を見ていた。

c0113928_23111870.jpgカイロプラクティック発祥の町ダベンポートは、ミシシッピー川沿いの田舎町である。川を挟んで四分割された「Quad Cities」と呼ばれる地域の、北西部に位置している。かつて、川は人間にとって重要な交通網であった。合流点などの要所には、おのずと町が生まれたのだろう。この地域も、穀物の船積み湊として栄えた町の集合だったのだろうが、今はその面影もない。

ダベンポートは、豊かな緑と、新旧取り混ぜた建物、のどかさと静寂が織りなして、独特な個性を持った町の風情をかもしだしている。そんな中に、最初のカイロプラクティック大学であるパーマー大学は、ひときわ目立った威厳と、格式を感じさせて堂々とした存在であった。出入りする学生数の多さも、パーマー大学の町ダベンポートといった印象を感じさせている。大学の目印として建てられたという街頭時計が、そのままカイロプラクティックの歴史を刻んでいた。
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道路に面した広場には、パーマー一家、3代にわたる歴代学長の銅像と、世界で最初の女性カイロプラクター、マーベル夫人の胸像が立っている。像の台座には、D.D.パーマーの最初のオフィスのレンガを使っている、と聞いた。
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マーベル夫人は病気の治療の中で、女性が非常に貴重な存在である、と主張した人である。彼女は、女性がカイロプラクティックという職業に就くチャンスを与え、多くの女性に激励を送り続けてきたのであった。そんな伝統のせいか、パーマー大学のキャンパスでは、多くの女性たちが生き生きとして輝いて見えた。

その広場の筋向いにはB.J.パーマーが所有していた放送局があった。カイロプラクティックの発展の歴史にとって、BJ.の得意なキャラクターと行動を見逃すわけにはいかない。D.D.がカイロプラクティックの生みの親だとしたら、B.J.はそれを育てた人であった。当時のマスメディアをフルに使い、商才と政治力という天賦の才能を駆使して、一民間の治療を世界に認めさせていった立役者でもあった。

B.J.の観察力とアイデアは、実験を指揮したり、カイロプラクティックの診断器具の開発などにも垣間見ることができる。1909年に、B.J.は骨格の異常を発見する方法として、X線診断装置をパーマー・スクールに導入している。X線現象は、レントゲンによって1895年に発見され、その翌年には、エジソンがたった1日で、X線装置を作成した。エジソンが残した「将来の医者は、投薬せずに、人間の骨格構造・栄養・病気の原因と予防に患者の興味を導くだろう」という言葉は、カイロプラクティックの今日を予言しているようにも思える。それはともかくとして、当時のX線放射は、手や脚を映す程度のものだった。B.J.は、脊柱を映す装置に執心しており、1907年に、その装置が発明されるや、すぐに導入して、実験に入ったのであった。

カイロプラクティックの学問にある「スパイノグラフィー(レントゲン分析学)」は、こうして生まれ、サブラクセーションのレントゲン上の証明に貢献してきたのである。今では、MRIまでもがカイロプラクティックの診断に応用されようとしている。

B.J.のカイロプラクティックの発展にかける執念には、並々ならぬものを感じる。カイロプラクティックの情報センターとしても随一の図書館を有し、その中には博物館を思わせるほどの膨大な数の骨標本が展示されていた。
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    その重厚な外観に歴史と威厳を感じさせるパーマー大学学生会館、デルタシグマ

1920年代には、アメリカ医師会の告発で、多くのカイロプラクターが裁判という場に引き出されるが、彼らを勇気づけたものも、B.J.の非凡な行動力と指導力ではなかったろうか。とかく、その個性の特異なるがゆえに、非難の的であったB.J.であるが、カイロプラクティック発展の一時期を、強力に牽引した偉大な指導者であったのも事実であった。

カイロプラクティックは数々の弾圧や裁判を戦い抜いてきた。その中でも、1976年から続いたシカゴ裁判で、カイロ・グループが勝訴したことは特筆すべきことである。11年間に及んだこの裁判の結果、アメリカ医師会の組織的なカイロプラクティックへの弾圧の証拠が明らかにされたのである。カイロプラクティックを支持する医師の証言も相次いだ。こうして、カイロプラクティックが圧倒的な市民の支持を得たのが、1970年代である。政府管掌の老人医療保健に含まれたのは1972年。1974年には、米国教育省がCCE(カイロプラクティック教育委員会)を公認し、全米のすべての州で法制化が達成された。70年代は、まさしくカイロプラクティックが不動の地位を確立した時代であった。

カイロプラクティック大学の二大双璧、パーマー大学とナショナル大学を訪ねて、医学教育としてのカイロプラクティックを充分に感じることができた。パーマー大学は、単科大学から総合大学にすることを発表し、教育界のリーダーシップを発揮しようとする熱気を孕んでいた。二つの大学には、それぞれの個性と雰囲気があったが、特にパーマー大学は、その伝統と規模で群を抜いていた。

しかし、カイロプラクティックを独自の医療として確立していくためには、大きな課題も残されているように感じられたのである。それは真にカイロプラクティックの科学を確立することのように思えてならない。「病理の現代医学」に対する「機能のカイロプラクティック」という立場を堅持し、カイロプラクティックの科学としてのニューサイエンス、ニューアカデミズムの構築に、真剣に取り組む必要があるように思えた。
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by m_chiro | 2010-03-25 23:20 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
臨時休診のお知らせ
臨時休診のお知らせです。

大きな声でお知らせしておきま~す。

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「お知らせ」担当の空からでした。
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by m_chiro | 2010-03-19 22:24 | 守屋カイロ・オフィス | Trackback | Comments(2)
ミネアポリスからの招待状 ① カイロ大学のアカデミズムを訪ねて
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1991年に刊行した「re-bone ―等身大のカイロプラクティック―」より、順次ここに掲載したいと思います。「re-bone」を書いたのは、もう20年も前のことでした。10年は色あせない本にしようと意気込みましたが、早20年です。色あせた部分は差し引いてお読みください。

(転載を禁じます)

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ミネアポリスからの招待状

(注:この記事は1991年5月に取材したものです。文中の安藤理事とは、今は故人となられた盟友・安藤喜夫DCです。素晴らしい友人でした。)
カイロプラクティック・ルポの旅
ミネアポリスのノースウエスタン・カイロプラクティック大学から招待状が届いた。同大学の50周年記念祭への招待である。JCAからは村松理事長、安藤理事、そして本誌の取材を兼ねて私とカメラマンの4人のチーム編成による派遣となった。そこでこれを機に代表的なカイロ大学の取材を通しながら、米国のカイロプラクティックがプライマリー・ケアとしての地歩を築いた苦難の歴史と現状をレポートしたい。


①カイロ大学のアカデミズムを訪ねて

5月1日、私たちはシカゴに向けて機上の人となった。めざすはナショナル・カイロプラクティック大学。米国のカイロプラクティック大学の中でも、最もアカデミックな大学という評価を得ており、JCA30年の歴史にも、大きな足跡を刻んでいる大学である。

飛行機の離発着数世界一を誇るオヘア国際空港に降り立ち、荷物が出てくるのを待っていると、建築家の黒川紀章さんと若尾文子さんご夫妻も、同じ便の乗客だったらしく、大勢の出迎えを受けていた。そういえば、シカゴは高層建築のギャラリーともいえる街である。1871年のシカゴ大火の後、多くの建築家が、それぞれに個性豊かなデザインの建築で、シカゴを再興させた。シカゴは、歴史的な摩天楼発祥の地でもあるのだ。

私たちはレンタカーをチャーターしてナショナル大学へと向かう。高速道路からルーズベルト通りに入ると、典型的なアメリカ郊外の風景が、何ともアメリカっぽく広がっている。

そんな光景に中に、ナショナル大学の20エーカー(81万㎡)を越す、広大なキャンパスがあった。大学校舎の正面玄関を入った大理石張りのホールには、カイロプラクティックのシンボルマークが描かれており、周囲をモールで囲っている。
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古来、翼のある杖に2匹のヘビがからみ合っているヘルメスの杖は、医学のシンボルとされてきた。そして、ヘビは、古代ギリシャの医師の守護神アスクレピオスの使いとされたのである。このヘルメス杖と同様、カイロプラクティックのシンボルにも、ヘビのデザインが使われている。翼のある両手を広げた人体に、ヘビをデザインしたものが巻きついており、そこには「CHIROPRACTIC」と刻まれている。カイロプラクターは、このシンボルの前に、実に厳粛な気持ちを呼び起こされるのである。

私たちは、まず大学の付属病院(Patient Research Center)を視察することにした。この病院がしたのは、ちょうど10年前の1981年のことである。50名の入院患者を収容できる地上2階、地下1階の、この近代的な臨床センターは、他大学には見られない施設であり、患者診療と研究に大きな貢献をしている。
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中にはMRIやレントゲン検査設備をはじめ、血液検査などの臨床検査設備が完備していて、まるで近代的な総合病院の設備を思わせる。臨床検査室には、ナショナル大学付属クリニックで行われる、全ての検査が集められるのだという。研究部門では、コンピューターに直結した、関節と筋肉のトレーニング・マシーンで、筋肉・骨格系のメカニズムと臨床の相関を研究していた。

ナショナル大学の、こうした努力が認められて、アメリカの高等教育認定協会から、カイロプラクティック大学では初めての、アカデミックな大学としての公認を受けることになったのである。同様に、ナショナル大学が発行する2冊の研究誌が、科学情報インデックシング協会から、カイロ界唯一の科学情報誌として認められている。JCAの発行する「日本カイロプラクティック学会雑誌」が、日本でも同様の扱いを受けるに至った経緯も、ナショナル大学の研究に寄せる姿勢に学んだ結果の産物と言えるだろう。

ナショナル大学の前身は、1906年にカイロプラクティック発祥の地ダベンポートに、Dr.ハワードらによって設立されたナショナル・スクールである。この大学の特色の一つは、他校に先がけて始めた、物理療法のコースを持っていることであった。その伝統は、今なお受け継がれており、運動障害のある患者への物理療法を応用した設備は、群を抜いているだろう。

一切の政府援助もなしに、私立の大学が、これだけの学府と病院、研究施設を築き上げた背景に見えたものは、カイロプラクティックに賭けてこられた多くのカイロプラクターの信念と情熱であった。しかし、彼らが決して現状に満足しているわけではないことを、インタビューに応じたウインタースタイン学長の言葉の端々にうかがうことができた。カイロプラクティック教育のレベルアップは、今でも米国のカイロ界共通のコンセンサスなのである。

ナショナル大学が、今日のアカデミズムを獲得するに至った歴史の中には、忘れてならない事件と、貢献した人物の存在があった。それはナショナル大学がシカゴからランバートへ移転した1965年に端を発している。当時のジェンシー学長が、証人として出廷した地方裁判所の「England事件」の裁判で、カイロ大学が全く公認されていない、という資料をつきつけられたことであった。ジェンシー学長は、この時の苦い思い出をバネにした。そして、ナショナル大学を世界で最もアカデミックな大学にすることを誓ったのである。

公約通り、5年制のプログラムを実施したナショナル大学は、1966年にイリノイ州の認可のもとでD.C.(ドクター・オブ・カイロプラクティック)とB.S.(学士号)の称号を発行することになり、1975年にはCCE(カイロプラクティック教育委員会)の公認をうけたのである。「England事件裁判」から、アカデミックな大学という公認を得るまでの15年間は、カイロプラクティック教育が急進展した時代であった。今こうしてナショナル大学の中に立つと、その原動力となったジェンシー学長の存在が大きく、重く、感じられてくるのである。
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by m_chiro | 2010-03-19 22:14 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
カイロ創世⑤ 「カイロプラクティック」の言葉の由来
カイロ創世⑤ 「カイロプラクティック」の言葉の由来

最初のアジャストメントからほどなく、2回目の成功例がありましたが、そのときは症状がはっきりしない「心臓病」で、 やはり椎骨のアジャストメントで治っています。こうして、D・D・パーマーは自分の確信を強めていったのです。そして、D・Dはこの新しい治療法の名称を探し始めました。

D・D・パーマーの患者であり、友人でもあるレバーランド・サミュエル・ウィ- ドー(Rev.Samuel.H.Weed)は、いくつかの言語に堪能な学者でした。古典的な言語の知識を持つウィ-ドはD・Dの友人として、この治療法にいくつかの名前を提案しました。

その中からD・Dは、最終的に「カイロプラクティック(Chiropractic)」という名前を選んだのです。それはギリシャ語で「手」を意味する「Cheir」と、「技術」意味する「Praktos」からとられたのでした。

D・D・パーマーは「カイロプラクティック」と命名された新しい発見をたずさえて、ミシシッピ-川の河岸のダぺンポートの町から、新しい時代へと出航していきました。

こうして「カイロプラクティック」という新しい言葉は、1896年1月14日に誕生したのです。
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by m_chiro | 2010-03-16 20:11 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
カイロ創世④ 最初のカイロプラクティック・アジャストメン ト
カイロ創世④ 最初のカイロプラクティック・アジャストメン ト

ハ-ヴェイ・リラード(Harvey Lillard)という名前は、一番最初のカイロプラクティックの患者として、 カイロプラクティックを職業としている人たちにドラマチックに刻印されています。

リラードはD・D・パーマーのオフィスのあるビルの管理人でした。彼は17年以上も周囲の音や雑音をほとんど聞き取れないほど耳が悪かったのです。

1910年に初板が刊行されたD・D・パーマーの自叙伝には、この最初のアジャストメントのくだりが書かれています。それによるとパーマーは、リラードが突然、しかも奇妙なかたちで聴こえなくなったことに注目しています。「窮屈な姿勢で身をかがめたときに、何か が背中を走るような感じがして、それっきり何も聞こえなくなった」と。

1895年9月18日のことでした。D・D・パーマーはリラードの脊柱を検査している時に、脊柱の不整列の兆候である「こぶ(隆起)」を発見したのです。これが、パーマーの用語でいう「サブラクセーション」でした。

D・Dはその時のことを、自叙伝に「私は、もしその椎骨がもとの位置に戻れば、聴力が回復するのではないかと考えた。その目的を果たすために30分間話し合って、椎骨をもとの位置に戻すことをリラード氏に承諾させた」と記しています。

パーマーは診察台の上にリラードをうつぶせに寝かせ、脊柱の不整列を正そうと、両手でその椎骨にスラストを加えたのです。これがカイロプラクティックの最初のアジャストメントでした。

D・Dはこう書いています。「私は棘突起をてこを使って、そのズレを戻した。椎骨がもとの位置まで戻ると、耳はすぐに、以前と同じように聞こえるようになった」。

17年以上もの間、不可能であったリラードの聴力はこの最初のアジャストメントによって街の雑踏を聞 くことができたのでした。

「これは偶発的なことではない。はっきりとした目的を持ってなされたことであり、予期された結果がもたらされ た。こおアジャストメントは粗雑なものではなく、スペシフィックな(特殊で限局された)ものである」とD・Dは記しています。

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          ファースト・アジャストメント
1895年9月18日、ダぺンポートのD・D・パー マーのオフィスで行われた最初のアジャストメントを描いたこの絵は、カイロプラクターの間で広く頒布されている。カイロ治療で救われた四肢の不自由な患者 が、カイロプラクティックへの感謝を込めて、足で描いたと伝えられる伝説の絵である。ハーヴェイ.リラードに聴力の回復をもたらした、この最初のアジャス トメントは、医療の分野へ新しい学派を出現させたのである

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by m_chiro | 2010-03-16 20:04 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(2)
カイロ創世③ D・D・パーマー 
カイロ創世③ D・D・パーマー(Daniel David Palmer 1845-1913)

D・D・パーマーは1845年3月7日、カナダのオンタリオ州ポートペリー(Portperry)に生まれました。彼は20歳の時に、生まれ故郷を出てア メリカに移住しました。イリノイ州ニューボストンに居をかまえたD・Dは、あるひとつのテーマに没頭していきます。

それは、ごく素朴な発想からでした。「同じ親から産まれ同じ食物を食べ、なぜひとりは強く、ひとりは常に病弱なのか」 「同じ身体で、なぜある臓器は弱く、ほかは正常なのか」等など・・・・。そして、一人の独立の思想家として「イネイト(INNATE)」という先天的な人 体の自然回復力を使って、薬を使わない病気の治療の方法を発展させていきました。

内臓のどこかが悪いかもしれないという時に、全身に投薬を試みる医学界の短所にD・D・パーマーは異議を唱え 始めたのです。そして、脊柱の異常あるいは不整列を前提として、それが人間の神経組織に悪影響を及ぼし、病気を起こす(サブラクセーション)という「背骨 の異常と病気との関係」を理論的に考察していきました。

D・D・パーマーは頑強な風貌ではありましたが、円満な人柄で、科学的な教育を受け入れた人でした。彼は痛烈 なユーモアと皮肉を交えた鋭い主張をする人でした。それはむしろ、彼の個性をより一層、魅力あるものにし、多くの人々に強烈なインパクトを与えていったの です。

1885年、D・D・パーマーは「イネイト治療」の理念を追究するために、アイオワ州ダベンポート (Davenport)に引っ越し、セカンド&ブラディストリートの一角にあるライアンビルディングの4階にオフィスを開業しました。

D・Dは病気を治すのが天職であると悟り、病気の背後には共通する一つの原因がある、という考えにとりつかれ て、寝食を忘れてそれを探究する生活が続いたのです。既存医療と医薬品の氾濫するこの世界の中で、それはまさしく医療界のターニングポイントでありまし た。しかし、D・Dが発見したカイロプラクティックというものが発展するためには、さらに長い年月を必要としたのです。
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by m_chiro | 2010-03-16 12:24 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
カイロ創世② カイロプラクティックに至る道
カイロ創世② カイロプラクティックに至る道
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夕暮れのアイオワ州ダペンポート。D.D.パーマーの最初の学校は、今ではパーマー・カイロプラクティック大学に発展した。この道路はパーマー大学に続く道である。


原始人類は、動物の習性に基づいて「本能的医療」を自らに施していたといわれますが、それが「経験医術」や呪術・祈祷などの「魔法医術」を経て、「医学」 として体系化されてきました。

そして、最も初期の医療形態の一つである整骨、背骨の矯正は、既に紀元前の古代エジプト人によって行われていたといわれています。

しかし、経験医術の流れをくむ整骨は、その治療効果は多くの人に認められながらも、技術のメカニズムを説明することができなかったために、正統医学としては認められず、近代医療の世界からは常に異端視扱いを受けてきました。

その一つのオステオパシー(整骨療法)は、バージニア州の田舎医師であっA・T・スティルが創始者といわれ、 1892年にはミズーリ州カークスビルに学校を設立、カリフォルニアにオステオパシー大学を持つまでに発展したのですが、1961年には医科大学に吸収さ れ、免許交付さえ禁止されてしまいました。

そしてオステオパシーとほぼ時を同じくして、アイオワ州に徒手治療の第二の学校が出現していました。

それこそダ ニエル・デヴィッド・パーマーによるカイロプラクティックの創世は、D・D・パーマーが病気に共通する原因とその治療法を発見したと信じた時に始まります。
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by m_chiro | 2010-03-16 00:43 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)



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