ミネアポリスからの招待状② カイロ発祥の地へ
ミネアポリスからの招待状②
②カイロ発祥の地へ

翌日、早朝に朝もやの中を、レンタカーを駆ってランバードを後にした。カイロプラクティック発祥の地ダベンポートまでは4時間ほどの道のりである。

イリノイ州からアイオワ州に入ると、アメリカンの穀倉地帯が、だだっぴろく広がっている。まだ種まき前なのだろうか、とうもろこし畑が土をむき出しにしている。それも、やがて一面が、とうもろこしの緑の大地に変わるのだろう。

私はW.P.キンセラの「シューレス・ジョー」の物語を思い出した。ケビン・コスナー主演の映画「フィールド・オブ・ドリーム」の原作となった小説である。「きみがそれをつくれば、彼はやってくる」という天の声を聞いた農夫が、アイオワのとうもろこし畑に野球場をつくり、亡き往年の名選手たちのプレーを楽しむ、というファンタジーである。ところが、その選手のプレーは夢を信じた人にしか見えない。

「JCAは正統なカイロ・カレッジをつくれ! という天の声を聞いた」と語っていた村松会長の言葉とダブらせながら、とうもろこし畑の彼方に、野球場ならぬカイロ・カレッジの夢と、そこに集う若者たちの姿を見ていた。

c0113928_23111870.jpgカイロプラクティック発祥の町ダベンポートは、ミシシッピー川沿いの田舎町である。川を挟んで四分割された「Quad Cities」と呼ばれる地域の、北西部に位置している。かつて、川は人間にとって重要な交通網であった。合流点などの要所には、おのずと町が生まれたのだろう。この地域も、穀物の船積み湊として栄えた町の集合だったのだろうが、今はその面影もない。

ダベンポートは、豊かな緑と、新旧取り混ぜた建物、のどかさと静寂が織りなして、独特な個性を持った町の風情をかもしだしている。そんな中に、最初のカイロプラクティック大学であるパーマー大学は、ひときわ目立った威厳と、格式を感じさせて堂々とした存在であった。出入りする学生数の多さも、パーマー大学の町ダベンポートといった印象を感じさせている。大学の目印として建てられたという街頭時計が、そのままカイロプラクティックの歴史を刻んでいた。
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道路に面した広場には、パーマー一家、3代にわたる歴代学長の銅像と、世界で最初の女性カイロプラクター、マーベル夫人の胸像が立っている。像の台座には、D.D.パーマーの最初のオフィスのレンガを使っている、と聞いた。
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マーベル夫人は病気の治療の中で、女性が非常に貴重な存在である、と主張した人である。彼女は、女性がカイロプラクティックという職業に就くチャンスを与え、多くの女性に激励を送り続けてきたのであった。そんな伝統のせいか、パーマー大学のキャンパスでは、多くの女性たちが生き生きとして輝いて見えた。

その広場の筋向いにはB.J.パーマーが所有していた放送局があった。カイロプラクティックの発展の歴史にとって、BJ.の得意なキャラクターと行動を見逃すわけにはいかない。D.D.がカイロプラクティックの生みの親だとしたら、B.J.はそれを育てた人であった。当時のマスメディアをフルに使い、商才と政治力という天賦の才能を駆使して、一民間の治療を世界に認めさせていった立役者でもあった。

B.J.の観察力とアイデアは、実験を指揮したり、カイロプラクティックの診断器具の開発などにも垣間見ることができる。1909年に、B.J.は骨格の異常を発見する方法として、X線診断装置をパーマー・スクールに導入している。X線現象は、レントゲンによって1895年に発見され、その翌年には、エジソンがたった1日で、X線装置を作成した。エジソンが残した「将来の医者は、投薬せずに、人間の骨格構造・栄養・病気の原因と予防に患者の興味を導くだろう」という言葉は、カイロプラクティックの今日を予言しているようにも思える。それはともかくとして、当時のX線放射は、手や脚を映す程度のものだった。B.J.は、脊柱を映す装置に執心しており、1907年に、その装置が発明されるや、すぐに導入して、実験に入ったのであった。

カイロプラクティックの学問にある「スパイノグラフィー(レントゲン分析学)」は、こうして生まれ、サブラクセーションのレントゲン上の証明に貢献してきたのである。今では、MRIまでもがカイロプラクティックの診断に応用されようとしている。

B.J.のカイロプラクティックの発展にかける執念には、並々ならぬものを感じる。カイロプラクティックの情報センターとしても随一の図書館を有し、その中には博物館を思わせるほどの膨大な数の骨標本が展示されていた。
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    その重厚な外観に歴史と威厳を感じさせるパーマー大学学生会館、デルタシグマ

1920年代には、アメリカ医師会の告発で、多くのカイロプラクターが裁判という場に引き出されるが、彼らを勇気づけたものも、B.J.の非凡な行動力と指導力ではなかったろうか。とかく、その個性の特異なるがゆえに、非難の的であったB.J.であるが、カイロプラクティック発展の一時期を、強力に牽引した偉大な指導者であったのも事実であった。

カイロプラクティックは数々の弾圧や裁判を戦い抜いてきた。その中でも、1976年から続いたシカゴ裁判で、カイロ・グループが勝訴したことは特筆すべきことである。11年間に及んだこの裁判の結果、アメリカ医師会の組織的なカイロプラクティックへの弾圧の証拠が明らかにされたのである。カイロプラクティックを支持する医師の証言も相次いだ。こうして、カイロプラクティックが圧倒的な市民の支持を得たのが、1970年代である。政府管掌の老人医療保健に含まれたのは1972年。1974年には、米国教育省がCCE(カイロプラクティック教育委員会)を公認し、全米のすべての州で法制化が達成された。70年代は、まさしくカイロプラクティックが不動の地位を確立した時代であった。

カイロプラクティック大学の二大双璧、パーマー大学とナショナル大学を訪ねて、医学教育としてのカイロプラクティックを充分に感じることができた。パーマー大学は、単科大学から総合大学にすることを発表し、教育界のリーダーシップを発揮しようとする熱気を孕んでいた。二つの大学には、それぞれの個性と雰囲気があったが、特にパーマー大学は、その伝統と規模で群を抜いていた。

しかし、カイロプラクティックを独自の医療として確立していくためには、大きな課題も残されているように感じられたのである。それは真にカイロプラクティックの科学を確立することのように思えてならない。「病理の現代医学」に対する「機能のカイロプラクティック」という立場を堅持し、カイロプラクティックの科学としてのニューサイエンス、ニューアカデミズムの構築に、真剣に取り組む必要があるように思えた。
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by m_chiro | 2010-03-25 23:20 | カイロプラクティック | Trackback | Comments(0)
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