「質感」、この極めて曖昧ながらクリアな感覚
先週の今頃は、WBCで大好きな野球を存分に楽しんだ。
その後もニュース番組などで裏話などが紹介され、その度に感動を新たにした。 決勝リーグのときは、日頃、野球に関心なさそうなおばさん達までが、待合室でも賑々しく話題にしていて関心の高さが窺われたものである。 イチロー選手には、プレイだけでなく言動にも注目した。 大会前に視力の低下が指摘されていたが、彼は「ボールを見るのは眼だけで見るのではない。身体全体で見るのだから問題ない」と周囲の雑音を振り払っていた。 「身体で見る」という物言いは極めて曖昧な表現ではあるが、とても含蓄があるリアルな感覚のように思われた。 ところが大会がはじまると、イチロー選手の状態は絶不調が続いた。 2割にも満たない打率で信じられないような成績である。チャンスにはことごとく凡退した。 天才も寄る年波には勝てないのかなぁ~と、白いものが目立ち始めて来た頭部を見ながら思ったものである。期待の大きさの分、苦しみも大きかったのだろう。 「痛覚にはない痛みを感じた」とも語っていた。これも専門家のような物言いだ。 独自の領域を築いた人の言葉というのは、なかなか味わい深いものがあるようだ。 話は変わるが、先週末は大阪にいて頭極堂先生と親しく話す機会があった。 頭極堂と名乗るくらいであるから、頭部のセラピーとその身体に及ぼす影響については独特の手法を開発しており、並々ならぬ努力の跡を窺うものがある。 とても独創的な発想で頭部や身体を診ているので、中には常人の理解を超えるものもある。 一体何を診ているのだろう? 膜系、神経系、関節などの運動系、循環系、...、何を指標にして診て、どこをターゲットにしてアプローチをしているのだろう。 いろいろな疑問が湧いてきて尋ねるのだが、なかなか私の理解はピンポイントで核心に近づけない。 結局、印象的にではあるが、部分だけど部分ではなく全体だけども全体ではない、ということなのだろうか? イチロウ選手が言った「身体で見る」という感覚に近い表現なのだろうか? そんなことを考えながら思いをめぐらせていた時である。頭極堂先生が発した「質感」という言葉がひっかかった。 なるほど「質感」とは、治療家が極めてクリアな身体の感覚として感じているものに違いない。 リアリティとも違う。現代の脳科学的に言い換えれば「クオリア」ということになろう。 クオリアを感じる脳は決して特異的な部位が担当しているわけではない。 形や色、動きや深度など、脳内でバラバラに処理されたものを再統合することで出来上がるとされている。 こうした質感の変化をインデケーターにする方法論が確立されているとは言えないだろう。 でも、この曖昧ではあっても、個々には妙にクリアな感覚として納得できるものを感じることができるのである。 視覚でも、触覚でも、あるいは体感でも、その身体感覚として感じる「質感」、そしてその変化を楽しむと、また違った治療観が生まれそうな気がしてきた。
by m_chiro
| 2009-03-31 17:22
| 雑記
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